江戸時代から、名古屋城下の人々の食料をまかなった小田井の市(いち)。
尾張北部からこの市場へ野菜などを運んだのが岩倉街道です。
街道をたどり、歴史の面影を探すウォーキングに出かけましょう。
1610年に名古屋城の築城および清洲からの町の移転が始まると、食料などの物資の確保が重要になりました。小田井の市が徳川家康のお墨付きの市場として公認されると、各地から野菜などが運ばれ賑わいました。
濃尾平野の北部からの経路として大きな役割を果たしたのが岩倉街道です。起点は枇杷島で岩倉を通り、終点は江南市の小折(こおり)か犬山までか、はっきりしません。岩倉から先の犬山までの道は、犬山街道、柳街道とも呼ばれたそうです。これは信長が道の両脇に柳を植えたことによると伝えられています。
1. 誓願寺(せいがんじ)
智徳山誓願寺は、1545年に創建された浄土宗の寺院。境内には、岩倉城を拠点に尾張上四郡を支配した織田伊勢守信安(いせのかみのぶやす)夫妻の墓が、名古屋市の含笑寺(がんしょうじ)から移築されています。美しい鐘楼門に目を引かれます。
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2. 岩倉城跡
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岩倉城は1479年築城。尾張上四郡支配の拠点でしたが、1559年、織田信長に攻め滅ぼされました。今はひっそりと石碑が残るのみですが、かつては五条川沿いに二重堀で広大な館や望楼があったそうです。 |
3. 神明生田(しんめいいくた)神社
主神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。1554年に岩倉城内に勧請されたものを真光寺(しんこうじ)に移転、さらに江戸時代に現在の場所に移されたと伝えられます。境内には山内一豊(やまのうちかずとよ)誕生地の石碑があります。一豊の父、盛豊(もりとよ)は織田信安の家老でした。戦国武将ゆかりの史跡を見ると、岩倉がいかに重要な土地だったかがわかります。
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4. 旗屋中島屋代助(はたやなかじまやだいすけ)商店
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筒描(つつがき)、印染(しるしぞめ)という伝統技法を使い、鯉のぼりや旗、のぼりなどを染める、6代続く染物屋。2~4月初旬に五条川の冷たい水の中でのりを落とす「のんぼり洗い」は早春の風物詩となっています。この時期に川沿いを歩くと、ひょっとすると「のんぼり洗い」の作業を見られるかもしれません。
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5. 稲原寺(とうげんじ)
1497年に寺の周辺で地変が生じ、光明を放って石像が出現。石像自ら「救世子安観世音菩薩である」と告げ、地元の人々が御仏として篤くまつったといわれています。石仏(いしぼとけ)の地名の由来にもなっているそうです。小さなお寺ですが、そのような深いいわれがあることに驚かされます。
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▲豊川稲荷や薬師如来などもまつられています |
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会社員だった舩橋靖和館長が、30年以上にわたり世界中から個人で収集した民族楽器1,800点余りのうち、約1,000点を展示するユニークな資料館。大変希少な楽器も数多くあります。「人間にとって音楽とは何なのかを、民族楽器を通して実感し、考え、楽しむ場所にしたいですね」と語る館長。いろいろな楽器を鳴らしてみるのも楽しいです。 |
ウォーキングをもっと楽しみたい方のために、“+α”のコースをご紹介します。
名鉄犬山線大山寺駅から石仏駅までのコース(約4.9km)に、石仏駅から布袋駅までのコースをプラスすると健脚コース(約8.5km)になります。
地図中、青色の線と青のポイントで表示させています。
生駒屋敷(いこまやしき)・小折城(こおりじょう)跡
生駒氏は応仁の乱の頃、奈良の生駒から尾張の小折に移住。街道筋の立地を生かして染料、油の商いと馬借(運送業)で財を築きました。そして、生駒氏3代・家宗の娘・吉乃(きつの)が織田信長の側室となって二男一女を生み、織田家の中で重要な地位を占めるようになると、小折に城を構えました。現在は屋敷跡地に保育園が建ち、門の横に石碑があるのみですが、近くには生駒氏の菩提寺、久昌寺があります。 |
富士塚(ふじづか)(別名:お亀塚・おかめづか)
高さ6.5メートルの小さな塚で、5世紀末の前方後円墳といわれています。別名「お亀塚」。1584年小牧長久手の戦いで、東軍の将・徳川家康は塚の上から西軍・豊臣秀吉の陣形を見渡し、小牧山の先取を決意したと伝えられます。生駒氏6代目の生駒利勝が塚に建てた六角の石碑は、江南市指定文化財になっています。 |